校長室から『リアリティのある授業、学校をどう創るか~授業と学校生活の見直し~』
教師生活38年目ですが、今年も管理職をしながら、授業を持たせていただ いていることは、貴重な経験だと思っています。その授業について、いつも考えることがあります。それは、学習内容が実際の生活、社会とどのように結びついているかということです。
幼児教育では、遊びの中から自発的に問いが生まれ、それが学びへと転化していきます。小学部低学年では、その流れを大切にしなければなりません。日本には教科書という非常によくできた教材がありますが、教科書の世界だけでおさまっていてはいけません。ですから、時折、生活と結びつける必要があります。算数であれば、長さや重さ、かさ等の数量関係領域においては、量感を体得させることも求められています。先日の3年生の授業では、巻き尺を使って、校内のいろいろな長さを測り回りました。校舎の高さはどれだけだろうと、階段の上から下まで巻き尺を垂らしていました。2年生のかさの学習では、水筒に入る水のかさを比べる学習で、一方の水筒に入った水をもう一方の水筒に入れて、溢れるか、溢れないかといった直接比較をしたり、コップ何杯分といった間接比較をしたりしました。
こうした低学年の授業の場合は比較的、生活と結び付けた学習を容易に組むことができます。しかし、高学年、中学部になると、学習内容は徐々に抽象的な思考が要求される内容になっていきます。そのため、生活と結び付けた学習を組むことは、容易ではありません。
しかし、授業者が、「リアリティのある授業をどうしたら創れるだろう」と常に考えていれば、時折、そんな授業は創れるものです。先日、サルカール教授が来校された際、授業参観していただいたのですが、中学部3年生ではコピー機の拡大縮小を教材にして、平方根の学習をしていました。中学部1年生の国語では、情報を整理して分かりやすく他者に説明する学習で、ドラえもんを題材にしていました。生徒が題材を決めたそうです。リアリティのある授業、学びが生活や社会と結びついている授業は、意識しないと創れませんが、意識すればいく らでも創れるのでしょう。
学校は、社会とシームレス(つなぎ目のない状態)でなければならないと言われます。授業以外でも、実際の生活、社会と隔絶した、学校だけで通用するルールも、これから社会に出る子ども達にとって意味を持ちません。例えば、“階段では、ぶつからないように右側を歩きましょう”という指導を行っている学校があるとします。しかし、右側歩行を意識して階段を歩いている大人はいるでしょうか。ぶつからないように周囲に気を配りながら歩いているだけです。チャイムもそうです。チャイムで動いている会社はあるでしょうか。始業と終業のアナウンスがある会社はあると思います。しかし、細切れにしたチャイムが鳴っている会社があるという話は聞いたことがありません。これらは、先生が指示を少なくするために生み出された方策の一つではないかとも考えられます。本校は、今年度からノーチャイムになりましたが、それによる支障は全くありません。むしろ、先生自身が授業開始に遅れないよう、時計を意識して見ておかなくてはならなくなったことぐらいです。
1年前のことです。校長室で、運営委員会の委員長と教育部長と話し合いを持ちました。その時の資料を印刷し、紙ファイルに閉じやすいよう、パンチで穴をあけて、クリップで止めて手渡しました。私としては、最善の資料配布をしたつもりでした。しかし、資料を見るや否や、顔を見合わせて、「校長先生、なんで紙に穴が開いているんですか」と不思議そうに尋ねられました。私の経験と会社とで隔たりがあったことを知り、恥ずかしくなりました。今や、紙ベースの資料はなく、電子で配布、閲覧されるのが当たり前。まして、資料を紙ファイルで綴じていることもないのでしょう。これは一例で、社会の当たり前から学校が取り残されている事例はたくさんあるでしょう。もちろん、“学校だからこそ”という部分も残しつつではありますが、リアリティのある学校にしていくために、まだまだ見直しの必要なところがありそうです。
社会とシームレスな学校を創るためには、より多くの外部人材に学校へ来てもらう必要があります。そして、我々は、その方々の反応を見たり、助言をもらったりしながら、改善していくしかありません。日本人学校には、学校運営委員会という管理組織があります。また、日本人会という支援組織も存在します。こうした組織と綿密に連携していくことで、社会とシームレスな学校へと発展していくのだと考えています。
テヘラン日本人学校で学ぶ子ども達へ
みんなは、これからおおきくなって、おとうさんやおかあさんがしごとをしている、おとなのしゃかいにいくことになります。がっこうでのまなびは、そこにつながっています。