校長室から『“金太郎あめ”みたいな教育から脱却する~孫泰蔵著『冒険の書』より~』
学校は何のためにあるのか?学校は誰のものか?これは、私がここ10年でずっと問い続けているテーマですが、孫泰蔵さんが書かれた『冒険の書』を読んでかなりすっきりしました。この本には、教育観、学校観というものを誰がどのような背景で創っていったのかが分かりやすく書かれています。ルソーやジョン・ロック、エリクセンなど、大学で教育学を学んだ時に目にした、耳にした教育者の著書が多数引用されています。恥ずかしながら、40年近く前の大学の学びなど遠くに置いてきていましたが、学校現場をそろそろ去ろうとしている今になって、良い学び直しができたと思いました。過去の教育者たちはそれぞれの時代背景を基に思想を作り上げていますが、それが今もなお普遍の思考として、疑いもなく信じ切っている自分を振り返り、考えさせられることがたくさんありました。知らず知らずのうちに、「お偉い人が、こう言っているのだから、間違いないだろう」という思考になっていたようです。
先日、中学部の技術の授業で、オーストラリアの16歳未満のSNS禁止を話題にしました。すると、生徒が「自分の生活のことを国に決められるのは、なんか嫌です」と意見を述べてくれました。澱みないストレートな意見に、私はハッとしました。日本にいながらイラン時間に合わせる生活のため、朝のワイドショーをよく見るのですが、多くのコメンテーターが賛否両論、交わしています。それを聞きながら、私自身モヤモヤしていたところがあるのですが、その生徒の一言で結論が出たように思いました。そして、自分の生活を自分でつくろうとしている姿勢を大変嬉しく思いました。
『冒険の書』の著者、孫泰蔵さんは、教育史、思想史をもとにして、今の学校教育の問題点を明らかにしています。宗教戦争によってヨーロッパが不安定になり、各国が荒廃していく中、教育の重要性が叫ばれるようになり、その後、同じ学年が同じ教室に集まり、同じ内容を一斉に教師が指導する学校が産業革命時代に生まれました。教育を貧富の差なく等しく受けられ、産業社会で活躍できる人材を育成するシステムとして、当時の学校は最も経済的、効率的でなければなりませんでした。また、“発達段階”という概念によって、全員が同じような成長をたどり、そこから外れれば、支援が必要と見なしていく風潮が全世界に広がりました。いわゆる“正常な発達”とそうでない発達という区分けになりました。
しかし、今は、価値観は多様化し、尊重され、学び方についても百花繚乱の時代になりました。個々の成長の形も様々です。今後、世界が再び荒廃に向かうと揺れ戻されるかもしれませんが、そうでない限り、多様性を認める流れは止まりません。加えて、AI時代に入り、「“学ぶ”とは何ぞや」「学校の使命、目的とは?」について、今一度考える時がやって来ています。
その問いに答えるヒントは、先ほどの生徒の発言にあると思います。個々の価値観、生き方、生活習慣は、自分で考え、つくっていかなくはなりません。しかし、学校で、同じ学年が同じ教室に集まり、同じ内容を一斉に教師が指導しているようでは、そんな力などは身につかず、誰かに委ねるようになってしまいます。「先生が言ったから」「友達がそうしてるから」「国が決めたから」。このような思考になることは、教育の崩壊とも言えるでしょう。
本校は、幸いにして超小規模校です。子ども達個々の価値観、学び方、特性を尊重してカリキュラムは編成することが容易な学校です。まだ、はっきりとした方策が見つかっているわけではありませんが、少しずつ“金太郎あめ”みたいな教育から脱却しなければならないと考えています。これは、今の学習指導要領、中教審答申『令和の日本型学校教育の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~』が目指している方向と一致しています。
テヘラン日本人学校で学ぶ子ども達へ
じぶんのせいかつは、じぶんでかんがえられるようになる。じぶんがまなびたいことをじぶんでかんがえられるようになる。そんなじかんをふやしていきたいとおもいます。