校長室から『真似る学びを基礎にして、自らの考えを創る学びへ~教育の質の転換~』

4年生の国語で、詩を作る学習をしています。自分自身の体験や興味を持っていることを題材にして、まずはそれに関する言葉集めをしました。そして、集めた言葉を蜘蛛の巣のようなウェビング図にし、詩のイメージを広げていきました。その後、4月から学習してきた詩を振り返りながら、それぞれの特徴、表現の工夫、詩の構成について考えていきました。擬人法や例え、リフレイン、擬態語擬声語、なりきり目線、起承転結など、言い表し方は違えども、4年生なりにたくさん見つけてくれていました。そして、「今度、詩を作るときは、こうした工夫も真似してみよう」と伝えました。

“学ぶ”という言葉の語源は、“真似(まね)ぶ”から来ていると言われています。先達が築き上げた知識、技能を真似するところから学びは始まるということです。能の世界でも、“守破離”という言葉があり、まずは先達の芸を守る、つまり同じように真似して受け継ぐところから始まります。教育界は、第三の改革期にあり、情報端末によって大きく変わろうとしていますが、この先達の知識を真似る“学び”は不易の部分であろうと思います。真似させる方法は、子ども自身に発見させたり、考えさせたり、試行錯誤させたりするなど、昔のように一方的に教え込む教授から変わってきていますが、行き着く先は、“先達の知識、技能を理解し、習得する”という山であり、登り方が違っているだけです。この知識・技能の習得は、明治の学制公布以後150年間、日本の教育の変わらない、大切な部分です。

しかし、一方で、日本は成熟社会になり、多様性を認める社会になりました。いえ、日本だけでなく、世界の多くが、多様性を大切にした社会へと変化してきています。そのような中、答えが一つのようにとらわれがちな、真似る“学び”一辺倒では難しくなってきました。実社会では昔から、正解などない問題もたくさんありました。今起きている戦争や紛争を見ても、相対する側それぞれの目線に立てば、見え方は違い、正解も違ってきます。よく、「学校は、イスラエルのガザ侵攻をどう教えるのですか」と問われるのですが、正解がないため教えることはできません。しかし、考えさせることはできます。パレスチナの歴史、イスラエル建国の経緯などの歴史が証明する知識(これまで大切にしてきた学び)をもとにして、その上で、自分自身が納得できる考えを持たせることができます。よって、導き出した考えは様々になりますが、これが多様な社会で生きる“学び”と考えられます。

では、真似る学びと考えを創る学びとはどのようなバランスで必要でしょうか。『学校がウソくさい』の著者である藤原和博氏は、「正解を教える授業と正解のない課題に取り組む授業とのバランスは、小学校で9:1、中学校で7:3」と言っています。先日の中学校国語の授業で、杜甫の漢詩『春望』を学習しましたが、最後に「この『春望』に手を加えるとしたら、どこにするか」といった課題を出しました。昔の教育界では、杜甫の作詩を批判的に見るなどもっての外でしたが、今はそうした批判的思考が一方で必要になってきています。

テヘラン日本人学校で学ぶ子どもたちへ

おとながいっていることは、すべてただしいとはかぎりません。ただしいかどうかは、じぶんでかんがえてみるひつようがあります。

 

校長室から『真似る学びを基礎にして、自らの考えを創る学びへ~教育の質の転換~』

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